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「お、やっと『明日』を迎えた感想はどう?」
 暗闇が目の前から晴れるのと同時に、そんな声をかけられた。瞼を押し上げた瞳に人は映らない。あるのは天井だ。横になっているらしく後頭部に少々の重たさを感じる。
 起き上がる。身体の所々が痛むものの、動作には概ね問題ない。軽い頭痛が蔓延的に続いている。首を振って周囲を見渡すと、昨日までいた場所とは違う部屋にいることに気づく。
 安いビジネスホテルの一室のような作りの部屋だ。ベッドが室内面積の三分の一以上を占めている。机は新幹線や飛行機のボードぐらいの広さしかない小さなもので、正面に鏡と卓上ライトが備えつけられている。壁は薄い柿のような色で、天井までそれが続いていた。
窓に映っているのは沈み行く太陽を正面から捉えた夕日だ。しかし、眺めていても目は痛まない。どうやらそれは本物の夕日ではなく、映像のようだった。その証拠にいつまで凝視していても、雲と太陽は動かない。作り物の風景。切り取られた夕日は、それでも美しい。
暖かみのない光でも、ジッと照らされていれば少しは体温の上昇を感じた。
 室内はもとから蒸し暑く、寝起きの身体は火照っている。
「おーい、いい加減こっち見てお話したいよー、って感じになれよ、な?」
 おどけた調子で、先程と同じ声がする。振り向くと椅子に女性が座っていた。背もたれに両肘をかけて、左右にがたがたと揺れている。椅子と一緒にその長髪も触手のように揺れた。
 見覚えのない女だ。右耳にだけ空けた緑のピアスと、横縞の囚人服が目につく。
「あなた、あんた、お前……は?」
「あんたでいいよ。隣の部屋の住人だけど、ま、よろしくー」
 手が左右に振られる。女は美人の類ではないが、笑顔の人当たりは良かった。短く刈られたブラウンの髪と対照的に肌は白く、背景である柿色の壁が透けて見えるようだった。
「隣?」
「そ、隣」
 女が右側の壁を指差す。そう、と返事をしながら首を捻った。はて、これはどうしたものか。
 疑問が多すぎて、なにをどう不思議に思うべきかも分からない。勢いが良すぎてホースの水が途中で詰まるようなものだ。困惑し、額に手をやる。
「なに聞いていいか分からないって顔してんね」
 こちらの様子を察してか、女が適確に表してくる。頷いて、女の方に目をやる。
「昨日の記憶はある?」
「……ある。壁を掘っていた。砕いた土を運んだ」
 手のひらを確かめる。皮が破れ血豆が潰れて、肉が不自然に盛り上がっている。黒ずんだ指と爪には土が染み込んで洗いきれないようだ。酸化した血液に色が似ていた。
「そのとーりー。で、あんたはようやくそいつを思い出せたと」
 おめでとー。そう言って女が拍手する。まったく心の籠もっていない乾いた音が響いた。
「意味が分からない」
「つまりさぁ。昨日までのあんたは毎日、記憶を消されていたわけ」
「記憶?」
 思わず頭に指をやる。女の方もこめかみに指を添えて、バーンと舌を出しておどける。
「そう、メモリー。あんた、なにか思い出せる? 愛の力とかなんでも使っていいから」
 女の冗談は半ば無視しながら腕を組み、目を瞑る。記憶というものの思い出し方は、こうするのだという知識はあるみたいだ。効果の是非はともかくそのまま脳を絞ること、数十秒。
 目を開けたときには、女の言葉の正しさを証明することができた。
「確かにない」
 昨日のこと以外、なにも思い出せない。ものの名前は分かる。手足の使い方も覚えている。だけど私事的な記憶はごっそりと抜け落ちている。いくら目を細めてもなにも浮かばない。
 臍下丹田に力を込めたところで、頭痛が酷くなるだけだった。
「冷静っつーか、無反応なやつだね」
「驚くべき?」
「聞くな。自分のことは自分で決めるといいよ」
 それはその通りだろう。一拍置き、やはり動揺の一つもないので、別の話に移った。
「昨日に泊まっていた部屋と違う」
 昨日の場所はもっと簡素で、粉塵が舞っていた。暑くうるさく狭苦しく、寝苦しかった覚えがある。洞穴のような荒い外壁は、屋外で寝泊まりしているようだった。
 それが一晩経って目を開ければ、見覚えのない部屋にいるのだ。
「そっちには驚いた?」
「若干」
「じゃあ表情変えなって」
「……こう?」
 頬の肉を指で寄せて上げてみた。なぜか女は苦笑し、「あーもういいッス」と手を振る。
「あんたは昨日昇級したの。クラスが変わって、待遇がよくなったと」
「クラス?」
「昨日まではDクラス。今日からはCクラス。こんにちは同階級」
女が握手を求めるように手を差し伸べてくる。ベッドの隅まで寄ってこちらからも手を伸ばせば届きそうだけど、そこまでする義理を感じなかった。動かないでいるとすぐに手を引っこめて、また椅子を揺らす。