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『私が上の階で見たものはこの世のものだとは思えなかった。そもそもこの世のことをほとんど覚えていないのだが。故に受け入れることはたやすかった。しかし理解しなければいけないのはBクラスに上がることは救いなどではないし、地下にいるからといって、上を目指したところで助かるわけではないということだ』

 

 決するほど深い意もなく螺旋階段を上って、二階に踏み入る。壁に手をつけながら上がった先も真っ暗で、照明は完全に落ちているようだった。迷路から抜け出たように外の光に祝福される、ということまで期待していなかったけれど、もう少し変化があってほしかった。
「……ん」
 目を凝らす。暗闇の中で次第に、亡霊のように浮かび上がるのは真っ白の壁だった。壁の色が違うようだ。ぼくらのいる場所は穴蔵の印象が強いが、真っ白な壁は……研究棟を思い出す。
 病院ではなく、真っ先にそちらが浮かんだ。なぜだろう。ぼくは過去、研究者だったのだろうか。それとも、と壁を睨む。この壁で囲われた場所の意味を、ぼくは知っているのか。
 廊下の中央に突っ立っていると危険な気がして、壁に寄り添う。廊下は一階の蟻の巣を模した作りと異なり、人間の住む場所みたいに整っている。碁盤のように十字路が多い。少し進んだだけで来た道を見失いそうになる。迷路としての目的があるのだろうか。
 進み出す前に、帰れないと困るので、なにか覚えやすい方法はないかと考える。まけるパンくずがあれば自分で食べている。少し悩んで、いいものに気づいた。血だ。左腕の血を垂らしながら歩けばパンくず代わりになるだろう。いや待て。なにも左腕の傷を使わなくていいのか。
 ハサミで指を切る。多少切ったぐらいでは血が道標として機能しないので、指の腹を軽くえぐって肉と血を同時に噴き出させた。痛いには痛いが、上の階にいるという緊張がそれを麻痺させている。血が存分に垂れ流れるのを見て、廊下に屈む。視認できないのなら意味はないので確認すると、床も真っ白であることが手助けとなって十分、判別可能だった。
 後はこれがこの階の誰かに消されないことを祈るばかりだ。……人影が廊下の奥にまで見当たらないのはどういうわけだ。この迷路状の施設は、人の気配を殺すために作られているのだろうか。曲がり角の壁際に張りつかれて待ち伏せされたら、まずどうにもできないだろう。
 考察している間もえぐった指から血が溢れ出す。全部考えてから始めればよかったと、自身の軽率な行動に後悔する。出血が止まると他の指も傷つけないといけなくなるので、仕方なく立ち上がって壁沿いに歩き出す。目的地というものはないので、真っ直ぐ進むことにした。
 進みながら、また考える。上の階も真っ暗ということはテスト中なのか。しかし下で嗅いだ臭いや獰猛な声はどこへいったのだろう。ぼくの気配を感じて逃げた、とも思えないが。
 廊下を進む間に入れそうな部屋はないかと左右を見渡すが、無骨な白い壁が四角形の柱を描くばかりだ。大規模な人間を寝泊まりさせる設備がない。上に来た連中が厚遇されているという噂も怪しくなってきた。あれば食料や日用雑貨を奪えるかと期待していたのだが、宝島の冒険とはいかないようだ。むしろ、下より整っているのに未開拓地を踏み進む心境だった。
 そして変化が訪れたのは、四つめの十字路を進もうとした先だった。
 正面の廊下をかさかさと、なにかが蠢いていた。虫にしては大きい影に目を奪われる。自然、十字路の壁に張りついて身を隠しながら、顔だけ出して目を凝らす。
「……な、ぐぅ」
 驚愕して声の出かかる口に指を突っ込んで噛むことで抑えながら、しかし自分の目を疑う。
 廊下を行くそれには、八本の『足』が生えていた。
 正確に言えば胴体や背中から足が生えて、不細工に突き出ている。生えてもムダにぶら下げているだけの足が半数だ。そして残りの足を虫のように動かして、廊下を這い進む。足のムダな生え方は、強制的に成長させて失敗したようにしか見えない。
 その奇怪な、造形に失敗して弄ばれた人形のような生き物は、顔がある。人間の顔だ。距離もあるし暗闇なので詳細は掴めないが、化け物が人間ベースであることは疑いようがない。胴体も人間のものに近いからだ。他の生物の材料は一切混ざっていないようである。
 しかしあそこまで狂った作りの人間は見たことがない。恐らく、外にもいないだろう。ぼくに気づく気配はなく、がさがさと進んでいく。目的地があるのかないのか、時々、止まって動かなくなる。 その動き方から、知能が人間の水準に達しているか疑わしく感じる。
 とにかく重心が低い。厄介だ。あれがもし、人を襲うというなら不意打ちされると対処が難しい。踏み潰すか顔面を蹴ればいいのだろうが、それぐらいで怯むように思えない。唯一の武器であるハサミを突き刺すとするなら、顔面。目玉あたりに突き立てることになるだろう。
 見失うと逆にマズイと思い、奇形の男を追跡する。行き先があるのなら好都合だ。男は右脇から突き出ている足を壁に引っかけて、十字路を曲がるのに苦労している。出ていって手助けしてやるわけにもいかないので見守る。そんな簡単なことにも対処できないこと、更にその口から溢れる唸り声から、やつがもう『人間』としての枠に収まっていないことを理解する。
 見た目通りということだ。背中から植木のように生えて暇そうにしている足は、幼児のそれのように短い。生えかけということか、もしくは『栄養不足』で成長が止まったのか。どちらにしても人間をあの形にすることを放っておく施設の地下に、ぼくらはいるということだ。
 男がようやく、足首をへし折ることで前へ進むことが可能になる。あの足、移動に使っているもの以外は柔軟さに欠けるようだ。右に曲がる男を、十字路一つ分距離を空けて追う。

 あれの仲間が床を這っていないか確認しながら、慎重に動く。幸い、男の動きは速くない。他のことに気を取られながら追っても見失うことはない。それに感覚が異常で、目のついていない方角を察するとかそういうものも持ち合わせていないようだ。人間を化け物にしたところで、所詮、人の延長にすぎないということだろうか。
「………………………………………」