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『ここに医者はいない。だれも身体の心配などしてくれない。救う者が致命的に欠けている。ではどうするか。淀んだ地底の空気から少しでも逃れたいのなら、周囲を踏み台にして、高い位置へ顔を持っていくしかない。それができないやつは、病気になる前に死んでいる』

 

「流行病?」
 夏美が「おぅ」と頷く。声を潜めて、口を極力開かず。空気を吸い込まないように。
「病気になることが今のはやり、ということで」
「そんなわけねーだろ」
 喋っている最中なのに否定される。今のはぼくなりの冗談で、それもけっこう面白いのではないだろうかという自信もあったのに。自室の入り口で壁に寄りかかりながら、夏美が廊下の左右を確認する。
「妙な咳をしつこく繰り返しながら倒れるやつが多いんだ、顔色悪いやつも増えたし」
「そうなのかな。みんないつも不景気そうな顔しているから、違いが分からない」
「まぁ、そうでもある」
 夏美もそこは同意する。夏美自身、顔色が悪化しているようには見えない。これからは悪そうに見えたら移される可能性もあるので、殴り倒してでも逃げた方がいいのだろうか。
「……それで。ぼくにそんなことを教えた理由は?」
「いや。とにかく気をつけろ、という親切心からだよ」
 夏美がいやだねーもうとおばさんのような調子で手を振って笑う。
「気をつけても、ここではうがい手洗いもままならない」
 目に映らない菌類を相手にするには不利な環境だし、対策の仕様もなかった。
 もっとも効果的なのが、神に祈る。だろうか。
 夏美が軽く口もとを曲げてから、部屋を去る。本当に注意しに来ただけとは考えていない。夏美の目はさりげなくぼくの部屋を観察していた。その視線には心当たりがあった。
 恐らく、あの青い薬に興味を持っている。上の階から持ってきた、あの薬だ。ぼくも、以前の記憶はないけれどここで生活するようになって、医療品の稀少さは理解していた。風邪薬どころか頭痛薬の一つを買うのにも大金が必要となる。その薬をどこからか知らないが調達してきたことについて、関心を寄せるのは自然なことだった。薬そのものを必要としているのか、売り飛ばして大金をせしめようというのか。ぼくとしては飲むというのなら、夏美に一つ譲ることもアリだと思っている。金で売る気もない。現在はテスト中に男から奪った金に加えて、娯楽室で賭けに勝ったことで資金に余裕があった。携帯電話の充電を済ませて尚、多少の残りがある程度には。そういえば男から奪ったもう一つのものである携帯電話だが、ロックがかけてあった。解除する暗号が分からないので放置してある。男が取りに来れば返すのだが、今のところは現れない。
 携帯電話に残されたメールの下書き日記は読破し終えた。これが以前のぼくの残したものであるとするなら、もう少し分かりやすく書いてほしかったというのが正直な感想だ。現時点でのぼくの知識では理解できないところが多い。なぜぼくは途中から唐突に殺し合いに参加して、最後まで生き残ったのだろう。前後が中途半端にしか書かれていないので動機や状況把握がほとんどできたものじゃない。これを書いている時点でのぼくに余裕がなかった、ということか。
 それに記述と現状の食い違っている点が多い。どうも以前のぼくは、ここよりもずっと清潔で整った部屋にいたような時期が存在する。地下室的な記述もないわけではないのだが、それが途中で打ち切られているように思えるのだ。そのために、日記の価値が薄れている。
 これはぼく以外、第三者がこの携帯電話に介入したということか、もしくは別の『ぼく』が書いたものなのか。記憶が消されたのは一度とは限らない。与えられた環境が毎回同じとも。
 この日記、せっかく読んだのに大して役に立たない可能性がある。少なくともぼくはだれか、何者なのか。それを完璧に説明してくれるような万能ツールとしての見込みは既に断たれた。ただそれはここに留まっている現状での話であり、将来、この『清潔な場所』に向かうことになるとしたら再び注目を集めるべき内容となる。というわけで、今は理解を放棄する。
 紙とペンがあれば書いてまとめて、情報を整理もできるのだけど。
 ぼく自身、続きという割に整合性はないものの、日記を書くことにしていた。電池に余裕がある今の時期にしか書けないかもしれないが、残しておくに越したことはない。前回、という表現もおかしなものだけど、記憶にリセットをかけられる前のぼくもそう考えてこの日記を残したはずなのだから。ベッドの上に座り込んだまま、ぽちぽちと文字を打ち込み続ける。
 しかし三日経っても、なんの変化もないというのは意外だった。
 あの青い薬を所有していることを知れ渡らせて、ここを管理している側になにか動きがあるのではと期待していたけど、今のところぼくに処罰が下ることもない。処分されては困るが、多少の動揺がなくてはわざわざあの薬を人前で流布した意味が薄れる。元荒間優は見かけないが、あの薬を飲んだのだろうか。もし飲んでしまったのならぼくの予想では『大騒ぎ』になるはずなのだけど、今のところ、地下は流行病に盛り上がっている様子だ。
 その元荒間優も腹いせに徒党を組んでぼくに襲いかかり、金でも巻き上げに来るかと警戒してはいたけどそこまで手荒な真似に出る輩ではないらしい。やはり鼻を殴り潰したのが効いているのだろう。あの一撃は元荒間優をぼくの風下に立たせる価値があった。

 良い比較にもなったし、殴って正解だ。

 携帯電話に日記を書き終えてから、電源を切る。少しでも電池をムダにしたくない。それから腕を動かす。渦を描くような傷は健在で見た目に変化はないが、概ね滞りなく動く。無理に動かすと牙の食い込んだ部位がぶちぶちと悲鳴をあげるときもあるけれど、概ねと言った。

 よって、問題ない。

 ぼくの身体は明らかに異質な流れの上にある。八本足の人間を見てから言うことではないかもしれないが、人間の身体というのはこんなに回復力のあるものじゃないだろう。これだけの怪我を厭わず動けることも、その痛みに耐えられることも。頑丈で済ますには無理がある。
 ぼくは何者だ?