WEB小説 入間人間のウェブ限定小説が読めます。

PAGE1
 追いかける。追いかける。そして、追われる。
 いつ立場が入れ替わるか不透明な、浮き沈みのある命が躍動する。薄く広がって胴を締め付けるように、心臓が伸びきっていた。制止する声も振り切り、短剣の柄頭に手を添えて対象へ一気に距離を詰める。走り続けていると視野が狭まり、不思議と草の匂いが鼻についた。
 豹柄の獣は前足に突き刺さった矢など厭わないように、俺を正確に目で追う。その怪我を考慮して右斜めから接近しながら、俺は強く自分を称える。確信する。信じ込む。
 俺の方が、速い。
 やつの足が届く範囲の寸前で、こちらも足を伸ばして地面へ滑り込み、肩を抱くように水平の姿勢を取る。直後、斜めから降り注ぐ猛獣の爪が肩を灼くようにえぐったが、浅い。致命傷ではない。鮮血が滲むより速く駆け巡る激痛を背負いながら、目を逸らさない。近距離で仕留め損ねることの意味は獣も理解しているらしく、身構えるように、どこか覚悟するように口もとを引き締めた。
 倒れ込みながら、その締まった喉元へ、短剣を突き刺す。地面に激突して跳ねた身体を敢えて押さえず派手に飛び上がり、体重をかけて全身で押し込む。
 押し込んだら血が噴き出すより先に捻る。同時にえぐられたこちらの肩からも激しく血が噴き出すのを温度差で感じた。気に留めている余裕はなく、奥へ、懐へ潜り込む。獣の暴れ狂う前足が俺の致命傷に届かないように密着する必要があった。二度、三度と背中を引き裂かれても短剣を離さず、獣の不快な吐息を浴びながら何度も、何度も刃を捻り込む。
 強靱な獣の肉体による抵抗は、こちらの腕や脇もちぎれるかのようだった。
 やがて獣の口から逆流した血が溢れだして、俺の背中に流れる体液と混ざり合う。獣の血は自前のそれより遙かに臭う。そのまま獣の反抗は勢いを失い、四肢が弛緩する。横へと倒れ込む獣と共に、俺も地面に伏せた。それでも親父が寄ってくるまでずっと、短剣を突き刺して身じろぎはしなかった。死んだフリをしている危険も、十分にあったからだ。
 普段からは考えられない、大型の獣を仕留めた日のことだった。
 喉から引き抜いた短剣は骨との接触で刃こぼれして、使いものにならなくなっていた。
 解体は集落の近くまで運んで行うこととなり、親父たちと一緒に獣の死体を運んで戻ることになった。その最中に集落の他の連中は俺を褒めたたえたが、親父は『無茶をするな』と頭を叩いてきた。
 肩と背中の傷ぐらいで大物を仕留められたのだから、無茶どころか実に効率的ではないか。無茶というのは五人、六人でかかって返り討ちに遭うことだ。
 反論したら、今度は殴られた。痛くはないが、不思議だった。
 大型の獣には腰が引けているのに、殺した俺には偉そうに振る舞えるのだなと。
 俺が怖くないのだろうか。自分より速いやつを、恐れないのか。
 襲われたら逃げられないっていうのに。
 それに無茶をするなと言われてもそれは難しい。
 身体は自然に動いたから。
 七つのときに集落が獣の群れに襲われて、母親を食い殺されたのが原因かもしれない。食い散らかされた母の腕を手にとって、なにかしらの感傷めいたものを覚えたのは否定しない。復讐ともまた違うけれど、あれ以来、殺生や獣への恐怖が薄らいだ。
 他に優先するべき感情が、俺の中に芽生えたんだろう。
 とにもかくにも、大物を仕留めた。俺はここにいていいんだと、誇示する。
 降りかかった獣の血に、飲んだこともない酒のように酔う。


 道をなぞるのではなく、走るという行為そのものが己の道を作る。
 それはこの世界に来てからも変わらないのだった。
 汗ばむ鼻を親指の腹で拭う。呼吸の間隔を目の前の人間に合わせる。相手も当然、警戒している。代わりに出てきたやつなんだから、やるべきことは一つしかないと筒抜けだ。
 その上で、与えられた期待に応える。読み取って、間隙を突く。
 二度、牽制されるのをやり過ごす。前にも対峙したことがあっただろうか、必要以上に警戒されているのが球の勢いから伝わる。初球は外してくるかもしれない。
 だから敢えて、一球目から行く。
 出番が来るまでずっと観察は続けていた。持ちうる情報はこちらの方が多い。
 己を鼓舞する。そして、律する。
 失敗したら自分は死ぬと強く言い聞かせて、恐怖で心臓を打ち叩く。
 他の誰よりも真剣に、そして、速く。
 投手の短いモーションと同期して、地面を蹴る。
 振った肘で空気を裂いて、その隙間へと身体をねじ込むように。
 そして身体が抵抗なく一歩目に移行できたとき、勝ちを確信する。
 完璧だった。足が風を踏むように、身体を軽快に運ぶ。
 良いスタートを切れたときは、加速というものを鋭敏に感じられるのだった。足から腰、腕へと一本の線が綺麗に繋がり、ひしゃげることもなく全身を連動させる。肘が軽い、背中がないもののように軽い。なにもかもを振り切って一人、どこまでも走って行けそうだった。
 滑り込む必要さえなく悠々、二塁に到達する。普段よりずっと短く感じた。
 球を受けた捕手は二塁へと投げてさえいない。中途半端に伸びた腕を調整して、投手へと球を返す。
 今日の調子なら三塁も狙えるかもしれないが、指示がない限り実行には移さなかった。
 それから、盗塁は成功したがバッターが連続三振でそれ以上の進展はなくこの回が終わる。
 走ったところでどのみち一緒だった。だが無駄足とは思わない。俺はこれだけ走ることができるのだと示せば十分で、極端に言うと勝敗さえどうでもいいのだった。