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 色々な持ち方を試したけれど、抱きかかえるのが一番落ち着いた。なんの話かというと、死体の猫を持つことについてだ。長めの尻尾を持つのも悪くないけれど、そのまま歩いているとぶらぶら揺れる猫の胴体が気になって仕方がない。それにちぎれてしまいそうだった。
 ぼくが発見してから数日は経っているのに、死体の猫は未だに暖かい。肌が擦り切れるような寒さの中を歩くとき、その暖かさは貴重だった。ぼくが身体に巻くボロ布よりずっと、寒気を和らいでくれる。真っ黒な猫で、目の色は分からない。死んでいるので当たり前だけど、瞼をずっと下ろしているからだ。こじ開けるほど興味もないので、そのままにしてある。
 ぼくと猫が行く道は、ほとんどが海に囲まれていた。海水はまだ引いていく気配がなくて、胃液に満ちた胃の中が、こんな風に浸食されているのではないだろうかと思ってしまう。決して、水上都市とかそんなおしゃれな雰囲気は微塵もない。様々なものが溶けるように崩れて、ずんずん壊れる音を立てて、騒々しい。泥の混じった海水は色も臭いも不快だった。
 こんな瓦解した町でもまだ、無事な方なんだと思う。ぼくの住む町は周辺より少しだけ、標高が高いのだと社会の授業で習ったことがある。だから所々、歩ける道が残っているのだ。
押し寄せた波に呑まれて水没しかかっている家の屋根を伝うことも考えたけれど、足を踏み外したり屋根が壊れたりして、落ちたときに助かりそうにないので諦めた。ぼくは泳げないのだ。半壊した道路の上はアスファルトの破片が多くて、裸足のぼくには歩きづらい。仕方ないので剥き出しの、海水に蝕まれてふやけた土の上を歩くしかなかった。
 目下のところ、食料の他には靴と服が欲しいのだけれど大半の家の入り口は水に浸り、カナヅチのぼくでは入り込めそうにないので、素通りするしかない。非常に残念だけれど。いや靴と服よりやっぱりなにより、食べ物に手が届かないのが悔しい。本当に、お腹が空いた。
 歩き慣れたはずの通学路から逸脱した道に入って、既に数日が経過していた。町の外へ出たことがないぼくは、自分がどの方角を歩いているかも把握できていない。どこを歩いても地面、植物、建物は海水に浸されて、深く沈んでいる。辛うじて水の引いた場所は一本の線のようで、ぼくはそこを導かれるように進むだけだ。一人きりで。死体の猫を抱きかかえて。
 こんなことになった理由は、ぼくにも分からない。
 正直、なにも知らないのだけれど世界のどこかで、なにかが起きたらしい。ぼくはそのとき丁度、二階にある自分の部屋から外の景色を眺めていたから『その』様子を逐一、眺めることができた。空から海が降ってくるように、大量の海水が降り注いで町を包んだ。本当に、一体どこからやってきたんだろうと不思議に感じる量で、夜が訪れたように、空が真っ暗になったことを覚えている。音はなかった。聞こえる前に、ぼくは気絶してしまっていたみたいだ。  ただ最後に見た光景は正しく、空が落ちてくるようだった。

 そして、ぼくたちの町は崩壊した。海のない県であるはずのここまで波が届いたのだから、恐らくぼくたちの国でこの被害を被っていない場所はないのだろう。多分。雨を数億倍凄くしたら、あんな風に空から海水が降ってくるんだろうなぁ、と今でも空を見上げて震えがくる。
 大半の死体は波に呑まれたのか、海の彼方へと消えてしまった。ぼくの両親もだ。お陰で町の匂いに死臭はなく、慣れない潮臭さだけが鼻をくすぐる。冬の海に包まれていると、鼻水に包まれているようで不快だった。突如として生まれた地元の海もありがたくない。ぼくは夏の海を目指すように、冬の海の傍らを歩き続ける。明確な目的はなにもない。どこへいけばいいかも分からない。けれどいくら待っても助けは来そうにないので、仕方なく、どこかを目指す。
 なぜ、他の生物が根こそぎ死んでいった中でぼくだけが生き残ったのだろうか。とんでもない幸運がぼくにはあって、スーパーのくじ引きでは百円のお買い物券、実質ハズレしか引けないにも拘わらず、ここぞとばかりにそれが発揮されてしまったのかも知れない。良い迷惑だ。

 いてっ、と針を踏んだような痛みを覚えて右足を上げる。足の裏を確かめると、歩きづめで硬化した皮膚がベキベキと剥がれ出してしまっていた。両親がよく、このようにひび割れた踵を削っていたことを思い出す。生憎とぼくにはヤスリのようなものなどない。この状態で放置するしかない。やはり靴が欲しい。それとマトモな服も、そろそろ必要だ。

 崩壊した家から脱出する際に、着ていた服はそこかしこの尖った場所に引っかかって破れてしまった。ぼくの部屋は二階で、母が服をしまっていた場所は一階だ。そしてその一階は津波で完膚無きまでに水没し、崩れてしまっていたからどうしようもなかった。