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「まーいさん」
 急に名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。名前……そう、それは私の名前だ。
 名前だった。
 顔を上げると、目の前に瞳があった。鳶色の瞳が私を覗き込んでいる。距離が近すぎて咄嗟に身を引くと、足が引っかかって背中から倒れ込んでしまう。ベッドの端に座っていたのを、倒れてから思い出した。電灯の消えたホテルの薄暗い天井を、ぼぅっと眺める。
 それも、私を捉える瞳が追ってきてすぐにかき乱された。
「どうしました?」
 猪狩友梨乃の影が私を縦に染める。長い髪を掻き上げて、耳が表に出ていた。
 今は色々あって、この女と暮らしている。
 正直、絶対にそうでなければならない理由は、ない。
「なんでもない」
「考え事ですか?」
 なんでもないと言ったのに、しつこく聞かれて面倒だった。
「ぼぅっとしていただけ」
 ふと昔のことを思い出していた、と素直に話すことをためらう。なぜならそう言えば、どういうのですと根掘り葉掘り聞こうとしてくるからだ。なんの因果か一緒に生活するこの女は、どういうわけか私のことを気に入っているらしい。けれど私は、そのどちらも気に入っていない。
 猪狩友梨乃も、昔の自分も。
 口を噤んで目を瞑ると、猪狩友梨乃の気配が離れた。そのまま、薄い眠気を纏いつつ息を潜める。かさぶたでも剥がしたように溢れた記憶は遠い出来事となり、どこか他人事めいていた。
 私を拾ったあの男も、半年経ったあたりで帰ることはなくなった。仕事に出かけて返り討ちに遭ったのだとしばらくしてから噂で聞いた。もちろん、大して悲しくもなかった。
 私が人を殺して得てきたものは生活だ。殺し屋となり、依頼を果たし、糧を得る。
 慣れれば、人が死ぬことにも大して心は動かなくなった。積み上げていた石をそっと指で押して、崩れる様を一瞥したらすぐに次へ向かう。人が一人消えたところで、世界は滞りなく回っていくと知ったからかもしれない。いつからか淡々と仕事に明け暮れるようになっていた。
 今や人を殺したって、誰も金なんか払ってくれない。
 既に殺し屋ですらない、ただの人殺しがここにいる。
 それでも殺さないで生きていくことはもうできなかった、あの男の言葉通りに。
 とてもこれまでのすべてを納得して生きているわけじゃない。戻れるなら、戻りたい。
 変えられるなら、失わないで済むのならと。
 益体もないことを夢想する。
 もちろん、どうにかできるはずもない。
 世界はがちがちで、一つとして後ろに戻ることを許さない。
 大きな流れの中で、砂粒にも満たないただ独りの反抗さえ、見逃さない。
 目を開けて、身体を起こす。気怠さは幾分か紛れていた。
 窓の外、薄いカーテン越しに向かいのビルが輝くのを見る。傾いた日が映り、窓ガラスが煌めいていた。夕焼けと共にある景色は心と目の底に柔らかい刺激を与える。差し始めた夕日を、右腕の袖を抱き寄せながら眺め続けた。思うところを、上手く言葉にしようとして幾度も失敗する。それは好きともまた異なる、目を伏せたくなるような不思議な感情の流出だった。
 日の角度が変わり、ビルの反射が弱まってからふと、猪狩友梨乃を見る。
 私の、世界で一番殺したい女に似た顔。
 艶やかな唇、潤んだように水気に満ちた目もと、長い髪。
 人の心を読める女は、反対のベッドに座って髪を指で梳いている。この女を誘拐する依頼と殺す依頼をそれぞれ受けたのに、なぜかまだ生きている。なんでかまだ、側にいる。
「…………………………………」
 今も側にやってきた。人を覗き込んでくる。なに、と目で問うと私の額に手を置いてきた。冷たい手のひらとの温度差を不覚にも気持ちよく感じて、それから気が抜けきっていることを恥じる。心を読めること以外は貧弱な人間の手さえ、咄嗟に避けられない。
「まだ少し熱がありますね」
「……いつものことだから」
「薬飲みます?」
「いらない」
 腕を失ってから、体調なんてものが上々であった試しなどない。精神の変質に応じるように、身体も歪なものとなっているように思えた。けれど偏るということは、固まるということ。集うということでもある。それは時として爆発的なものを生み出す礎となるのだ。
 猪狩友梨乃の手が額から離れる。冷ややかさはすぐに生温さに覆われる。
「じゃあ、飲み物でも」
「いいって」
 離れようとする猪狩友梨乃の手首を掴む。目を丸くする猪狩友梨乃を見上げる。
 顔つきではなく、雰囲気にあどけないものがあった。
「母親ぶるのも、姉ぶるのもやめて」
 そんなものはもういらなかった。
「いえ、友達ぶってるんです」
「は?」
 自称友達はまるで動じない。淡々と、にこやかだ。
「友達には親切にしようって習いませんでした?」
 柏原の顔を思い浮かべる。