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一章『出会い』

 十二月十二日。
 晩秋と初冬の風が波打ち際で混ざるころ、相模湾は魚鱗のような小さな銀色の粒に被われて光る。暮れてゆくその光の中、魚鱗の海面を静かに浮いて歩く人がいる。
 アニイだ。
 アニイは、アクリル板のような透明な材質で作られた細めのサーフボード二枚に左右の足を乗せ、交互に足を前に出して滑るように進む。時折くる波にはサーフィンの要領でその上を滑る。遠目に見ると、まるで海の上を浮いて歩いているように見えた。
 暮れていく海の上では、サーフィンやウインドサーフィンそれにカヌーなどをしている人達が、夕日に照らされ幾つかの光の粒になっている。ヨットの帆は光を透過したステンドグラスの様に発光しながら、流れるように滑っていく。それらを見詰め続けていると目から入り込んだ光の粒たちが全身の毛細血管の先まで滞りなく巡って、心も身体も浮遊していくようだった。
 まるで時間が止まっているような錯覚に陥る程の緩やかな時の流れの中で、いつもと同じ煌めく景色を眺めている。
 毎日繰り返される日常風景に溶け込んで全てが流れていく。湘南の海は自由だ。何をしていても、殆どのものはその光に被われた風景や、優しく吹く無意識の風に溶かされて浄化されてしまう。光の粒となった人達が、それぞれに特別な思いを仮に持っていたとしても、皆それを特に知ろうとしないし、立ち入ろうとしない。
 その中でも、私にとってはボードに乗って歩くように海の上を進むアニイの姿が異質で特別なものとなっていた。私の他には誰もアニイのことを殊更には気にしている様子はなく、いつもの見慣れた風景の一部として映っているようだ。
 彼は、来る日も来る日もただ海の上を歩くという行為をひたすら続けている。端から見ていると何の実利もなく、スポーツとして楽しんでいる雰囲気さえ微塵もないように見える。例えば、雲水が無心に修身し、修行に没頭するのに似ていて、行為そのものが純化し単純なものと映った。しかし、その姿は涼やかで潔く美しい。常人では至らない簡素で精錬された雰囲気や空気感を携えながら光の粒となり、彼自身もまた微かに発光しながら風に吹かれ、そして風に何かを問いかけ続けているように見えた。
 私は、彼にもし特別な思いがあるとするのなら、それを知りたいと思った。彼は直向きで、光の粒となった人達の中でも一際輝いて見えたからだ。
 今の私には直向きに思いを傾けたり一途に進んでいく対象がまるでない。そして、それらを探す糸口さえも見つかっていない有様だった。 
 私はここひと月ほど彼のことを眺め続けている。不思議な雰囲気を携える美しい彼に魅了され、そして一見すると無為に見える行為をひたすら続けている理由を知りたくて。見詰め続けることによって、私自身も浄化されていく様な気もしていた。日常生活の中で心にこびり付いたヌメリみたいなものが、ホンの少しずつだが洗い流されていくように。
 私は鎌倉の若宮大路沿いにある女子高に通っている。
 材木座にある自宅へ帰る途中、この由比ヶ浜海岸の堤防に寄り掛かって、一時間ほど潮風に吹かれながら海を眺めるのが習慣となっていた。
 私の他にも幾人か堤防に寄り掛かって、なにをするでもなく思い思いの表情を携えて、風に吹かれながらただ海を眺めている人達がいる。私もその中の一人として、誰かと話しをすることもなく、アニイのいる海をただ遠景として眺めている。

 この季節になると、浜辺には、もう観光客はいない。思い思いに散歩したり、砂浜に腰かけて移りゆく海を眺めるひとときを楽しんでいる鎌倉の住民たちが何組かいるだけだ。
 いつもアニイは、私が帰るころまだ海の上にいて砂浜には上がってこない。暗くなるまで続けているのだろうか。だから私は一度も彼を間近で見たことがなかった。
 ところが、今日は珍しくアニイが砂浜に向かって滑るように歩いてくる。何かあったのだろうか。
 暫く眺めていると、サーフボードのような例のものを抱えて波打ち際まで上がってきた。例のサーフボードは中央が同じ透明な材質のもので繋がっているようだ。アニイは砂浜に腰かけた後、仰向けに静かに寝転んだ。空に向けて大きく息を吐き出しては吸い込み、その都度ゆっくりと胸を収縮させて呼吸を整えているようにみえた。