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  蛙の鳴き声が、そっと手を伸ばせば届きそうなほど低く垂れ込めた灰色の雲に染みこんでいく。空を見上げた僕の目とその雲の狭間を揺らぎながら淡く霞んだ水蒸気が満たしていた。まばたきし、視線を東へ移すとわずかな隙間から深い海を覗いたようにブルーグレイの宇宙が見えた。
 蛙の鳴き声を聞くと、今でも昨日のことのように五十年前の貧しくて切ないけれど楽しかった少年のころの記憶が、あざなわれた藁縄が解けるように蘇り、そして放出される。
 全てが混沌としていた。街並みも空気も人々も根拠のない熱気に包まれてカオスの真っ直中にあった。整って規則正しいものなど何もなかった。
 駅前には戦後間もなくハルピンからの引揚者が集まり始め、こまごまとした繊維問屋を形成していた。その後の好景気の波に乗り、この問屋を『ハルピン街』と自ら名付けてアメーバーのように増殖し続け、やがて駅前全てを埋め尽くし日本中を商売相手として群雄割拠した。
 ハルピン街の先には、キャバレーやダンスホールをはじめとする夜の店が数百軒集まった『柳ケ瀬』と呼ばれる歓楽街が控えていた。
 駅裏にはソープランド街があり、これを取り囲むようにパチンコ屋や映画館をはじめとする娯楽施設が隣接し、さらにその隙間を埋め尽くすようにありとあらゆる飲食店や怪しい店が建ち並んでいた。
 ただ駅裏はソープランド街から少し離れると広大な敷地におびただしい数の材木が積み上げられた集積場があったり、田圃や畑が点在するのどかな風景が広がっていた。
 僕の家は、ソープランド街から程近い線路脇の集落のなかにあった。
 その集落は国鉄の貨物集積場と日通の倉庫群に囲まれていて、二十軒程のバラックにちかい 粗末な家がクランク型の路地を挟んで建ち並んでいた。
 随分大人になってから聞いた話だが、この土地は元々国有地で戦後の引揚者や様々な事情を抱えた雑多な人達が勝手にバラックを建てて住み着いた不法占拠地だったらしい。
 ただ子供だった僕には、そんな事情など関係なくて楽しい仲間と切ないけれど楽しかった時間を過ごした最上の場所だった。

 一章『カエル』

 六月もなかばを過ぎた雨の日だった。
 ゆうべから霧のような細かい雨がふり続いて湿度が空間の隅々までを満たしていた。僕はぐちゅぐちゅになった路地を水溜まりをさけて通りぬけ、家の戸を開けた。少し湿った東京オリンピックの記念切手のシートが手から零れ落ちてタタキに貼り付いた。
 拾い上げて「ただいま」と母ちゃんに言うと、針先に視線を落としたまま「おかえり」と答えた。母ちゃんは毎日のように既製服の針仕事の内職をしている。その周りには既製服がうずたかく積まれていて、家の中はいつも糸くずだらけだった。
「学校で東京オリンピックの切手、ちゃんと買ってきたんかー」と母ちゃんが針先に視線を落としたまま聞いてきた。母ちゃんは針仕事をしているときは顔を上げないし手も休めない。

 僕が湿度のために少しふよふよになった記念切手のシートを手で伸ばしながら母ちゃんの顔と針先のあいだに差し出すと、視線をさえぎられた母ちゃんが迷惑そうに眉根をよせて睨んできた。

「口で言いなさい、口で。大事にしまっておくんやよ、いい。大人になったら価値が出るんやで。わかったの、返事は」
「うん、わかった」
 僕は小さな机の引出にしまうふりをして、切手シートを小さく折りたたみズボンのポケットに押しこんだ。
 ランドセルから教科書を引きずり出して本箱にしまっていると、外でバシャバシャというせわしない足音がして、こちらに近づいてきた。
 家の戸が勢いよく開いてマサとシロが飛びこんできた。

「シンちゃん、カエルがないとった。カエルつかまえに行くぞ」と二人が声をそろえてどなっている。